何とかブログを継続できている。二か月くらいたったみたいだ。
数年前に一回チャレンジしているのだが、その時は初回の投稿だけして以降ずっと更新できなかった。
そしてただただ無駄にサーバー代を払い続ける、という状態になりやめた。
それに比べれば、ブログの内容のクオリティや、ちゃんと読まれているか、ということはともかくとして、「継続できている」というだけで、雲泥の差でよくなった。
で、大げさな話なのだが、これってもう「自己実現」なのでは!?とか思ってしまった。
いや、というのも一応、それこそクオリティは問わなければ、哲学書を読んで、感想程度のものであれ、ブログで発表する。私は「哲学研究者」になりたかったのだ。
で、ある種の「肩書」ってのは、言ったもん勝ち、だと思う。「在野の哲学研究者です」って名乗るのは自称でできる。
あるいは「作家」とか。まあ極端な話、家で原稿用紙に「ああああ」って書きつけて、「これが俺の小説!俺作家!」で完成、ではなかろうか。いや、もちろんここでも作品のクオリティは問わなければ。
なんか心理学系の自己啓発本で読んだんだけれど、「目標設定」は大事だ、と。
例えば、「芥川賞をとる!」という目標は、その成否に明確な基準があるが、それは外部にある。
要は、「芥川賞」を決めるのは自分ではない。その目標が達成されるには、自分の実力や努力以外の様々な要素の複合で決まる。その中には「運」なんてものもあるかもしれない。
それに対し、「小説を(いついつまでに)書く」という目標にすれば、まあほぼほぼその成否は自分の努力や行動によるだろう。
で、目標として掲げるのは後者の方がいい、と。もちろん作家でいえば、作品の社会的評価を求めてもいい。というかまあ、小説なんて人に読まれて評価されてなんぼ、ともいえるかもしれない。
が、この例で私が言いたいのは、あくまで自己啓発的な側面からの話で、結果その行動が続きやすいのは後者の目標だ、ということ。
社会的な評価は狙ってとれるものではなく、あくまで後からついてくるおまけ、くらいに考えた方がいい。前者を目標にしてしまうと、自分なりに頑張って一応は作品を書き上げた時に、「社会的な評価」が得られなければ失敗、と思ってしまう。
その意味でいうと、私はこのブログを開設し継続していることで、目標の少なくとも一部は実現したといえる。もちろん、これからそれを継続していくことが大事なんだけど。
で、ふと、『働くおっさん人形』という、かつて(2002年)やっていたテレビ番組を思い出したのだ。
日曜日の早朝にやっていた、企画と出演が松本人志の番組だ。
ご存知でない方にどういう番組か説明すると、松ちゃんが、いわゆる素人の「おっさん」にインタビューする、というものだ。後に松ちゃんの映画で主演する、野見隆明さんなんかも出ている。
で、その番組に吉田秀雄さん(当時59歳)というタクシー運転手の方が出られていたのだが、松ちゃんからの、「最近ハマっていることは?」との質問に、「芥川論を完成すること」と答えてらっしゃったのだ。
当時の若い私は、申し訳ないが、(まあ番組自体の趣旨がそういうものなのだが)「イタいおっさん」として嘲笑的に見ていた。
が、今となっては思う。吉田さんをだれが笑えようか。それは、レンズ磨きをしながら『デカルトの哲学原理』を書いたスピノザと何が違うのか?港湾労働者として働きながら、日記に社会哲学的な思索を書きつけていたエリックホッファーと何が違うというのか?
いや、まあ作品の出来不出来には残酷なまでに差があるのだろうし、寡聞にして吉田さんの「芥川論」が完成したのかどうかは知らない。
死後に評価されたゴッホの背後には、「俺も死後に評価されるんだ」と思っていながらも、結局ただ歴史の闇に消えていくだけの無名の画家がごまんといるのだろう。
やはり生前であれ死後であれ成功した表現者と、そうでない者との間には歴然たる違いはあるのだろう。
しかしながらともかく、もはや私は吉田さんを嘲笑する気には全くならない。嘲笑できない。
もし仮に吉田さんが嘲笑されるのだとすれば、私も嘲笑される側だ。いい歳こいて、無名の、何の実績もない、ただブログに訳の分からない駄文を書きつけているだけの自称「哲学研究者」の変なおっさんとして。
コメント