第一章のタイトルは「心の因果性」となっています。この章では、「因果性」という概念を補助線として、「心とは何か?」という問いに、特に「心とは物理的な存在なのか、それとも、非物理的な存在なのか?」という問いに取り組みます。
さて、「因果性」です。因果性とは何か?
例えば、野球をやっていて、打球が球場のそばにある家の窓に当たって窓ガラスが割れた。この時に、(当たり前ですが)ボールが当たった「から」窓ガラスが割れた、という理解をするでしょう。当たり前すぎて、改めて言葉にすると変に感じるかもしれませんが、要は、私たちは世界の事象を理解したり説明したりする時に、「原因」や「結果」という概念を使っているのです。
で、これがどのように「心とは何か?」という問いにかかわるのか?例えば、日常的なこんな場面を想像してみましょう。
あるとき街を歩いていて、カレー屋さんの前を通り、カレーのいい匂いがしてそのお店に入った。
さてこの時に、「なぜカレー屋に入ったの?」と聞かれたら、「カレーの良いにおいがして、カレーを食べたくなったから」と答えるでしょう。
つまりここでは、「カレーを食べたい」という「欲求」が原因となって、「カレー屋に入る」という「身体運動」が結果した、と言える。ここでの因果関係は、「欲求」という心の領域にあるものが、「身体運動」という物理的な世界での出来事を結果したのだから、「心物因果」と呼べるでしょう。
先の系列における、「カレーの匂いがした」という「知覚」が、「カレーを食べたい」という「欲求」を生んだところは、心同士の因果関係、「心心因果」と呼びましょう。
さて、ところで、例えばボールが窓ガラスを割った、という物理的なもの同士の因果関係や、心理的なもの同士の因果関係は無理なく理解できますが、心理的なものと物理的なものとの因果関係は、簡単に理解できるでしょうか?日常的な語彙では、「カレーが食べたくなってカレー屋に入る」といった言い方を普通にしますが、これを哲学的に厳密に考察しようとするとどうなるか?特にここで論じようとしている心の哲学においては。
心身二元論は、心とは「非物理的な」存在だと考えるのでした。「物理的な存在」とは、究極的には物理学によって解明されうる存在であり、その特徴として、「空間的」な存在と考えられる。それに対し心とは目に見えないし触れないし「非空間的」で、かつ主観的なものだ、だから物理的なものではない、というわけです。
で、そうすると、「心物因果」とは実はよく考えると、かなり奇妙でありそうもない事態になってしまわないでしょうか?それ自体は「空間的」ではないような存在が、「空間的」な存在に影響を与える。それは、念力で手を触れずにコップを動かす、というような事態が常に起こっている、と主張するに等しいのではないか?
この疑問に対して、先のカレー屋の例で答えるのならば、「欲求という心の状態」が「身体運動」を結果した、と直接因果関係で結ばずに、その間に「脳状態」を挟む、というアイディアがすぐに思いつくでしょう。しかしその場合も結局のところ、「心脳問題」が発生する。つまり「欲求」という「心の状態」がどのようにして「脳の状態」という物質的なものに影響を与えるのか、と。
そして二元論には、「心物因果」が理解しがたい、という問題と、もう一つ別の問題が発生する。それは、「二つの因果経路」という問題です。
先のカレーの例はこうだ。カレー屋に入る←カレーを食べたいという欲求を持つ←カレーの匂いを知覚する←嗅覚神経の物理的刺激。
神経生理学的な視線で見た時、「心」という説明概念を使わなくても、この系列を説明できてしまう。先ほど二元論の話でも「脳状態」を導入したが、それを言うのであれば、もはや「心」はいらなくならないか?つまりこうだ。
嗅覚神経の物理的刺激→(カレーの匂いを感じた時の)脳状態a→(カレーを食べたいと欲求する時の)脳状態b→身体運動。
この物理的な系とは別に、同時並行で、心理的な系も走っている、と考える必要はあるのか?心理的な系と物理的な系と、二つの因果経路が存在している、ということなのだろうか?しかし、それは理解可能な事態か?むしろ「本当は」物理的な因果関係しか存在しない、と考えるべきではないか?
というのが、「因果性」を二元論の中で考えたときに発生する問題二つです。
では、因果性を物的一元論の枠内で考えるとどうなるのでしょうか?二元論の問題を考えた時に、実はすでに問題の半分くらいはすでに論じているのです。つまり、先の議論で、「脳状態」を導入しましたが、そこでストレートに、「心とは、つまるところ脳状態である」と考えてしまえば、因果経路は一つに収斂され、すっきり理解できます。あらゆる心理状態に、一対一で対応する「脳状態」がある、と考えれば、いわゆる日常的に「心」を導入して考えている場面全部が、「物的一元論」で処理できます。
「心脳同一説のテーゼ:各タイプの心の状態は特定の脳状態と同一である。」(p.47)
心脳同一説は、心が実は物質である脳に他ならない、と考える点で、物的一元論の一つになります。しかしながら物的一元論は心脳同一説に尽きるわけではありません。心脳同一説に対しては、物的一元論の立場からも批判がなされています。それは機能主義からなされた批判です。
心脳同一説は、「特定のタイプの脳状態」が同一であれば「心の状態」も一対一で対応する、と考えるわけですが、その「特定のタイプの脳状態」にはたとえば脳の素材、といったものも含まれると考えます。例えば、「痛みの感覚は、C繊維という神経細胞が興奮しているというタイプの脳状態と同一」(p.51)だとする。そうすると、そのC繊維の代わりに、C繊維と同じように刺激を伝達する人工のシリコンチップを脳に埋め込んだ場合どうなるのか?想定上、痛みの感覚自体は発生しているとします。しかしながら、心脳同一説では、その状態を、「同じ脳状態」ととらえることができない。したがって、それによって発生した痛みの感覚自体も、別の心理状態だと考えざるを得なくなるのです。しかしこれはあまりに狭量な考えではないでしょうか?何か不合理な考えではないでしょうか?
そこで出てくるのが、以下のような「機能主義」と呼ばれる考え方です。
「各タイプの心の状態にとって本質的なのは、それがどのような因果的役割を果たすか、つまりそれがどのような原因によって引き起こされ、どのような結果を引き起こすかである、という考え方である。因果的役割はしばしば「機能」と言い換えられる。それゆえ、このような考え方は「機能主義」と呼ばれる。機能主義のテーゼは次のようなテーゼで言い表される。
機能主義のテーゼ:各タイプの心の状態は、特定の機能で定義される状態である。」(p.53)
例えば心臓という器官は、血液を体内に循環させる、という機能がその本質なのであって、それがどのような素材でできているかは本質ではない。人口の素材でできている人工心臓であっても、それが血液を循環させる役割を立派に果たすのであれば、それは「心臓」である。
機能主義の立場で考えるのであれば、例えばシリコンチップでできた脳を持つロボットでも心を持ちうる、ということになるだろう。
さて、このように、「心の因果性」における議論は、二元論に対し物的一元論の方が優位であると考える根拠を与えそうです。
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