休日をただダラダラして過ごしてしまう…。何もせず休日を潰してしまって、また仕事の日になるとものすごく憂鬱になりますよね…。
はぁー…、しんどい…。
「あれ…?何のために生きてんだっけ?」ってなことまで考えちゃうんですよね(笑)。
んー…、どうしたらいいんでしょうかね?なんか楽しい趣味でもあったら違うのだろうか?
しかし例えば、ゲームをやりまくって休日を過ごしたとする。感情としては快感情のはずなんだけど、なんかむなしいんですよね。
もっと充実して過ごしたい、とか思うんだけど、何をしたら充実するのかがよくわからない。
哲学的な幸福論の議論で、幸福は快感情なのか?っていう問いが立てられている。そして答えは否定的だ。というのも、それを認めると、例えば麻薬依存者はある意味で快感情を味わい続けている、ともいえるからだ。しかしながらその状態を「幸福」とはあまり思えないだろう。
快感情の長さ、期間の問題だろうか?薬物依存者の快感情は一時的で、しかも快感情の後に苦しみを伴う。だからそれを幸福とは言えない、ということなんだろうか?
しかし例えば、何か目標に向けて努力している人は、その努力において、なにがしかの苦しみも味わっているだろう。しかし全体としては、その人の生は充実していて幸福である、と言われうるだろう。
目的を自分の意志で定めて、そのために努力をする、というような構造こそを指して、「幸福」な状態、と呼ぶのだろうか?
哲学者の永井均は、「人間は何のために生きているのか?」という問いに、「遊ぶためだ」と答えている。
そして、「遊び」を、こう定義している。「自分のしたいことをして「楽しむ」こと」。「そのときやっていることの中で完全に満ち足りている状態のこと」。(『子どものための哲学対話』講談社文庫p19)
だから、一般的に言う「遊んでいる」とはずれるところもあって、例えば「仕事」も、食うために嫌々やる、というのでなく、仕事そのものがその人にとって楽しみになっていたら、それは「遊び」であり、その人にっては「生きる理由」になる、ということらしい。
うー…、ん。少なくとも私にとって仕事はそういうものではない。やる必要がなければやりたくないことでしかないな…。
それそのものの中で満ち足りていられるものとは何だろうか?
ちなみに、永井は究極の遊びは「学問」だと言っている。
確かに、哲学をやっているときは、それがほかの何かに役立つから、といったことではなく端的に楽しい、という気はする。
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