第四章の前半で、メルロ=ポンティはまず心身問題の古典的な解決策の検討から始めている。
この部分は、僕達にとってもいわば「心身問題入門」的な意味を持っていて、問題の整理に役立つだろうと思う。
認識論における観念論と実在論の対立、という話題の時によく言われることなんだけど、素朴的な意識は実在論的だ、とかよく言われる。
つまりごく普通の意味で、僕達は何かを見た時に、それがそこに存在することを疑っていない、という当たり前の話。
むしろ逆に、観念論の話の方がびっくりするだろう。つまり哲学的観念論者はこう言う。
あなたが見ていると信じているものって、あなたの知覚に現れた視覚像ですよね。脳の見せてる映像みたいな。つまりそれって結局のところ心の中の観念ですよね。それって実在じゃなくない?それってあなたの感想ですよね、ってな感じ。
で、まあ素朴な意識は、哲学的な懐疑論に毒されてない意識は、実在論的、って言われているわけ。
でもメルロ=ポンティは第四章の冒頭をこう始める。「今日まで一般に素朴的意識は実在論的だと言われてきたが、それは言い過ぎというものである。仮にそうでないとしても、この問題については少なくとも、常識の見解、つまり知覚したことを常識的な言葉で述べるその報告と、知覚的経験そのものとの区別ー話された知覚と、生きられている知覚との区別ーぐらいは、しておくべきであろう」(p.275)
ここんところがすでにちょっとわかりづらかったのだけど、要はこういうことらしい。「実在論」という言葉からしてすでに、もう哲学的な用語なんだよね。つまりはじめっから、「観念論」という言葉と対になっている言葉で、「素朴的な意識」自体はそもそも「実在論」なんていういかめしい言葉は使わずに、それこそ素朴に、ただ見ているものがそのままそこにある、ということを信じている。
「実在論」ってのは、先の『現代現象学』っていう本でいう「形而上学」に対する回答としてある、って感じだよね。
つまり、そもそもこの世界には何が存在するのか?みたいな超抽象的な哲学的な問いがあって初めて出てくる言葉、概念というか。
その問いに対して、「存在するのは心とその対象の観念だけだ」って考えればそれは「唯心論」あるいは「観念論」。存在するのは心の方ではなくて、知覚する対象の方だと考えれば広く「実在論」、そしてそれが特に「物質」であると考えれば、そしてそれのみが唯一の「実在」であって私たちが心とみなしているものは、何らかの意味での「仮象」に過ぎないとか考えるのであれば、「唯物論」とか「物的一元論」とか言われるのだろう。
で、メルロ=ポンティとしては、知覚の権利を回復したい、というか、素朴な意識のその「ものに到達している」意識こそを救い出したい、擁護したいと思っている。
哲学に興味のない人はそもそもこの動機自体が転倒しているように思えるかもね。だってそんなの救いだすも何も当たり前のことじゃん、って。わざわざ議論して「擁護する」必要あるの?って。
まあここら辺は確かに哲学の特殊性?変なとこ?は出てるかもしれんが。戸田山和久さんっていう哲学者が大学院時代の先生の名言として、こんな言葉を挙げている。「哲学の常識は世界の非常識」。なるほど。たしかにそうかも。哲学をかじっちゃうと、それこそ観念論とかにも説得力を感じて、自分自身が観念論者になるかどうかはともかく気にはなってしまうんだよね。
で、まさにこの心身問題に関しても、メルロ=ポンティは最終的にはそれを批判しているんだけど、途中までは、カント的な観念論というか、この本でいう「批判主義」的な考えに同伴していく。
さて、出発点は素朴的な意識だ。そこにおいては、例えば、目の前の机を見ているときに、その存在を疑ってもいない。しかしまあ、冷静に考えれば、素朴的な意識だって、シニカルな(じゃない普通の、でもいいけど)懐疑論者に、でもあなたが見ているのは机の表面だけですよね?裏側も存在するってなんでわかるんですか?証明してくださいよ!それってあなたの感想ですよね!?とか詰め寄られたら、口ごもってはしまうだろう。
で、まあ確かに反省してみれば、僕からは机の表面しか見えないし、足も四本あるのは知っているのだけれども、三本しか見えない。「証明」なんて大げさなことはよくわからないけれども、机の下にもぐりこめば天板の裏側も見えりゃ、足も四本同時に見えるよ、ってなもんである。
だからあえて言語化したらこうなる。僕らは知覚において、ものを常に一側面からのみ見ている。それが「私から見られた一側面」であることはわかっている。と、同時に、いわばその「一側面」が所属するところの「ものそのもの」であるところの「机そのもの」にもその都度到達している。僕らにとって「もの」とは、常にその一側面からのみ眺められながらも、こちらが位置を変えることによって、滑らかにその見えを別の側面からのそれへと変化させながらも、常に一つの同じ「もの」であり続ける、と。
さて、僕らが今問題にしているのは「心身問題」であった。では、その「素朴的意識」においては、「心」と「身体」はどうなっているのでしょうか?
ここはちょっと長いけど引用しちゃおう。
「〈身体の媒介〉というものは、大ていのばあい私によって見逃されているものである。たとえば私が自分の興味をひく出来事を目撃するとき、眼ばたきによって光景に出来る〈不断の句切り〉を、私はほとんど意識せず、それが私の記憶に現われることもない。けれども所詮、私は、眼を閉じれば自由に光景を中断しうるということ、つまり私は目を仲介としてものを見るのだということを、よく知っている。が、この〈知〉でさえ、私の眼なざしが物に注がれるとき、私の見ているものは物そのものだと信ずることを妨げはしない。これは、私の身体とその諸器官が、私の志向の支点ないし乗物に止まり、まだ「生理学的事象」としては把握されていないからである。そこでは身体は、外物と同じように、心に現前しているだけであって、外物の知覚のばあいと同様、両項間の因果関係は問題とはなっていないわけである。つまり人間の統一はまだ破られてはいなかったし、身体は人間的述語を奪われてはおらず、機械にもならず、また心もまだ対自存在として定義されてはないかったということになる。素朴的意識は、心を身体運動の原因とみるようなことはないし、かと言って、パイロットを船の中に乗せるようなぐあいに、心を身体の〈中に入れ置く〉ようなこともしない。そういう考え方は、哲学にこそ属するのであって、直接的経験には含まれてはいないのである。」(p.280)
さて、このように原初に想定された「人間の統一」が、哲学的な反省の中で破られていくプロセスをこれから描いていくことになる。
上の引用文でもすでに触れられていたように、哲学的反省を俟つまでもなく、自己の身体が「媒介」として働いていることは、ちょっと反省してみればすぐに気づかれることだ。
引用文中の「まばたき」という日常的な事例、例えば眼球についた傷が視界を変える、といった事例を、いくらでも思い当たるだろう。
そして究極的には、映画『マトリックス』的想定、ヒラリー・パトナムの言う「水槽の中の脳」にまで行きつく。つまり、「知覚」を生み出すには、少なくともある種の「疑似知覚」なためには、身体なかんずく脳がありさえすれば十分ではないだろうか?
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