『現代現象学』における「心身問題」

『現代現象学 経験から始める哲学入門』(植村玄輝・八重樫徹・吉川孝 編著 富山豊・森功次 著)の、第5章「存在」ー2「心身問題」を読んで、心身問題の基本、特に現象学はそれについてどう論じるのか、についてまとめてみます。

まず、「心身問題」一般について。「心身問題」とは何か?

「心」というものをまあ日常的には、普通に存在するものとして我々は扱っているわけですが、改めて「心とは何か?」なんて聞かれてもちょっとたじろいでしまいますよね。

そこでちょっと補助線を入れて、問いに具体性を持たせてみましょう。「道に落ちている石は、「物質」であって心は持たないが、私たち人間は、心を持つ」と普通には考えますね。

で、人間は心を持っている、というのは良いにしても、同時に「身体」を持っている、というか、「身体」でもある、というのも認めてもいいことですよね。

そして、身体というものは石と同様の「物質」であるようにみえる。高いところから落ちるし、他のものとぶつかれば傷つく。要するに物理法則に則している存在なわけです。

で、一方で「心」っていうものは目に見えないし触れもしない。物理法則に則しているようには思えません。

現代的な科学的語り、あるいは常識においては、「心とは結局脳なのである」というようなことが言われたりもします。

つまり結局のところ、道端の石ころと人間とは、その複雑さに(かなりな程度の、ではあれ)程度の違いがあるだけで、「質的には」同じではないか。

心があるということを認めてもなお、心は脳である、という話を持ち出すまでもなく、例えば目をつぶれば風景が見えなくなる、身体の病気の時には心の状態が変化する、というような日常的な事例を持ち出すだけでも、「心は何らかの意味で、物質としての身体に依存している」というべきではないでしょうか。

そしてそうなると問題は、その「何らかの意味で」っていうところですよね。具体的にはどういう形で、心は身体に依存しているのだろうか?「心」と「身体」の関係やいかに。

というのが「心身問題」の構図です。

では、現象学は心身問題に対してどう取り組むのでしょうか?

現象学とは、「経験の探求」である。何か経験を超えた、哲学的理論からくる偏見や決めつけをせず、まず虚心に自らの経験をかえりみてみる。

よく現象学のスローガンとして言われる、「事象そのものへ」とか「説明することでも分析することでもなく、記述することが大事だ」といった言葉で表されていることですよね。

で、心身問題とは、以下のような問だったわけです。心とは「そもそも」何なのか?「本当は」どういう存在なのか?それは結局のところ、「脳」でしかないのではないか?

この、「そもそも」とか「本当は」がポイントです。

これらの問いは、「形而上学的な問い」であると『現代現象学』は言います。そしてこの書物では、この書物だけに限定された意味で、厳密に「形而上学」という言葉を定義しています。

「世界には何がどのように存在するのか?」という問いを問うのが、形而上学的な問いである、と。

まず、「世界」とは、ありとあらゆるものの全体、です。つまり形而上学は、限定された経験を超えて、「ある全体」、究極に「一般的なもの」について語ろうとする。

例えば、今知覚していない、つまり「経験」してはいない、隣の部屋は今も存在している、と言っていいのか?存在するといっていいとして、それは今目の前の、まさに経験しているこの机、というのと同じ資格で存在する、と言っていいのか?

あるいは、今目の前にある「白い机」と「白い椅子」は、結局のところどのように存在するのか?「個別的なもの」として存在するのか?この場合の、机と椅子に共通のものとして取り出せるように思える、「白さ」という「概念」も「存在者」なのだろうか?

といったような、気が遠くなるような、究極に一般的で抽象的な問題を扱う分野が「形而上学」なわけです。

で、心身問題とは、この意味での「形而上学」的な問いではないでしょうか?

心を私たちは例えば特定の感情という仕方で、特定の知覚とくという仕方で、それこそ「経験」しているのではないか、しかし、その経験は「そもそも」「本当は」物理的存在である脳という器官が持つ「機能」に過ぎないのではないか、といった風に論じるのだから。

経験を超えた、「世界全体」において、心とはどういう仕方で存在するのか(あるいは存在しないのか)?と問うているわけです。

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